時代の流れに翻弄された広島城

 この章では、前の記事(広島旅「概要版」)で紹介した観光スポット(広島城)の詳細を紹介する。広島城は、下剋上の時代の終焉と重なったからこそ築城できたとして有名である。また、築城当時に使用されていた金の鯱鉾の謎についても興味深い。その一方で、第二次世界大戦との関係も深く、原爆の被害を大きく受けたため、今は当時の姿をとどめている部分は少ない。「戦争と平和」の両方の時代を経験した城と言える。特に、原爆投下による被害の第一報を伝えた場所となったことにも何か因縁めいたものを感じさせる。

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 壱の巻:時代の流れに翻弄された広島城

(1)広島城

①概要:太田川の三角州(デルタ地帯)に毛利輝元が築城した城。別名「鯉城」。原爆による被害を受けるまで(昭和初期まで)は、国宝に指定されていた。

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②名前:広島城の一帯は昔「己斐(鯉)浦(こいのうら)」と呼ばれていたことから、「鯉城(りじょう)」と呼ばれている。野球球団「広島東洋カープ(carp、鯉)」の由来にもなっている。

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③特徴

・デルタ地帯に築城された城(平城)である点。この特徴を持つのは、他に名古屋城大阪城が挙げられる。平城の特徴は、その攻めやすさ。築城された時期が下剋上の終わりを告げた時期と重なったことも一因。戦をあまり意識する必要が無かったからこそ、この城が築城できたのだ。

・二の丸:本来であれば二の丸は、本丸防衛の最終拠点で、通常本丸の周囲を覆うように築城するのが通常。しかし、広島城のそれは、写真のようにポツンと建てられている広島城の二の丸は、馬出(攻撃の拠点)の機能を持っていたことから、即座に攻撃へ展示されるよう、この場所に設置された。「攻撃は最大の防御」の発想である。

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・金の鯱瓦(鯱鉾):広島城天守閣で展示されている金箔瓦。平成21年に行われた発掘調査によって、広島城三の丸跡の井戸の中から発見された金と朱漆の鮮やかな色彩を残してほぼ完全な形で見つかったのは全国初であり、現存する最古の鯱瓦である。特に、その口元は鮮明な朱色で塗られており、まるで口紅のよう。安土城織田信長築城)に初めて鯱瓦が用いられてから間もない時期に制作されたもので, 初期の鯱瓦の形状を知る上で貴重な資料である。しかしながら、この鯱瓦がなぜ井戸に隠されていたかについては謎に包まれている。

④戦争との関係:広島城内は戦時中、軍の施設(中国軍管区司令部)として使用されていた。当該施設は、半地下式の作戦司令室や通信室が設けられており、原爆による壊滅的な被害も受けた。しかしながら、半地下式であったため通信室の一部は使用可能なまま残り、その設備を使って原子爆弾による被災(第一報)を伝えることになった。つまり、原爆による被災を最初に伝えた場所となったのである。

被爆樹木:クスノキ・クロガネモチ・ユーカリの木が残されている。

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(※)最後に

これを読んで、外出の自粛要請解除後に広島旅に是非とも出掛けようと考えたあなたへ!下の記事でも、2万円で楽しむ広島旅(概略版)を紹介しているので、併せて確認することをお勧めする!

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